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《分断社会における公務員の役割》多数決は民主的なのか

【自治体通信Online 寄稿記事】
我らはまちのエバンジェリスト #14(福岡市 職員・今村 寛)

会議や打ち合わせで議論百出、なかなか意見が一致せず、「これ以上議論してもしょうがない」―。こんな時、どうしていますか? 今回は多数決が生み出しかねない“多数派vs少数派”の対立や分断を解消し得る方策を考えます。現下のギスギスした分断社会を、互いの多様性を認めあう社会に転換していくために公務員が果たせる役割とは?

“民主主義の根本原理”へのモヤモヤ

先日ある対話の場で「多数決は民主的なのか」という問いが投げかけられました。

唯一無二の専制君主がひとりで物事を決めることができた世の中から民衆が政治の中心になる民主主義へと時代が移り、主権を持つ多くの主体が話し合って物事を決めることができるようになりました。

その際に意見がまとまらない場合の採決手法として確立しているのが多数決です。

すべての人に等しく賛否を表明する権利が与えられ、その多数意見を結論とするルールは民主主義の根本原理だと理解されている方が多いと思われていますが、果たしてそうなのでしょうか。

多数決が前提とされる議会制民主主義においては、あらかじめ多数派となるため会派単位での議席獲得の戦いで雌雄が決してしまい、議会で実際に個別具体の議論が深まらないという問題をはらんでいます。

時には首長の提案した議案が提案した内容ではなく首長が気に食わないという理由で否決されるという事例もあり、内容が十分に議論されず、首長へのさや当てで決する多数決に意味があるのか、という疑問もわいてきます。

さりとて、意見の相違がある場合に多数決以外に物事を決める手法がない以上、その枠組みでいかに民主的に運営していくかしかないんだけど、というモヤモヤした話になりました。

多数決は少数派を「殺す」?

「多数決は少数派を殺すことって理解がみんな足りないんじゃない?」

その対話の場で、以前から多数決に抱いていた違和感を私は少しきつめの表現で述べました。

意見が食い違う際に多数決でしか決めようがないことはわかります。

しかし多数決の結果、多数派の意見が全体の意見とされた際に、それに反対だった少数派はまるでいなかったかのように扱われる、あるいは多数派の意見に賛同するよう宗旨替えを迫られることが往々にしてあります。

多数決はときに暴力的で、多数であることが「正しい」こととされ、その結果、多数派は少数派の意見をその意見を持つ者が少数であるがゆえに「間違い」であるかのように取り扱い、少数派を蔑んだり、その場から排除したりすることがあります。

両者は意見が違うだけで、多数決は「正しい」か「間違い」か、を決める方法ではないのに、です。

これは、議会などで実際に採決をとる際の行動だけではありません。

私たちは、社会生活を営むうえで、心理的安全性を確保するために多数派に属したいという気持ちを持っています。

みんなが思うように考え、みんなが好きなものを好み、みんながすることをする。

そうしていると安心だからです。

しかしその傾向が進めば、多数である意見や状況を「当たり前」と考える先入観によって私たちはその価値観に支配され、「当たり前でないもの」を軽視したり、無視したり、場合によっては多数派が「正しい」、少数派を「間違い」だと断じて排除してしまうことすらあります。

私はこれを「少数派を殺す」という表現をしたのです。

多数派は少数派を理解できない!?

今、あちこちで「分断」という表現を目にします。

互いに意見が違うというだけでなく、その相違を理由に距離を置き、あるいは排斥し、相互に理解しようと歩み寄ることができない現象。

何かの問題に対する反対派と賛成派という分断だけでなく、所得や職業、居住する地域や環境、配偶者や子供の有無など、その人の置かれた立場、境遇の違いからくる価値観の違いが、あらゆるところで「分断」を生んでいます。

21世紀の社会に「分断の壁」があちこちでつくられている…(画像は冷戦時の東西分断の象徴・ベルリンの壁の図解。右側が旧東ベルリン、左側が旧西ベルリン)

意見の相違による「分断」は、対話によって互いの距離を縮め、相互理解の橋を架けることが可能ですが、対話の前提として相手の立場、意見をありのまま許容することが必要です。

しかし多数派は、「多数」であることが邪魔をして自分たちの「当たり前」に囚われ、少数派の意見や価値観を先入観なく受け止めることができません

例えば現在の法令で認められていない選択的夫婦別姓や同性婚について、それを認める法整備を求める声がありますが、法整備には至っていません。

それは、夫婦が同じ姓であること、また異性同士での結婚が当たり前だと思っている多数派が、そのことに不自由を感じている少数派の立場に立った事象の理解ができないからではないか。

少数派は、世の中の大多数が思っていること、感じていることに触れる機会が多く、自分たちの少数意見との差異を客観的にみることができる場合が多いのに対して、多数派は「当たり前」という偏見のせいで、少数派に見えている世界が見えず、想像もできず、したがって少数派を理解するに至らない、ということなのではないかと私は思うのです。

多数であることは錦の御旗ではない

民主主義は、すべての人が平等に扱われる権利を有していることが前提です。

多数決の結果、多数であったから少数派よりも優れているわけでは決してない。

多数派は、自分たちの意見が常に世の中の主流として取り扱われ、少数派の意見がなかなか採用されない現状を見て、それが自分たちの「正しさ」を証明するものだと感じていますが、それは誤り。

むしろ多数派の権力はその陰に圧殺されている少数派の犠牲と信託のうえに成り立っていることを自覚し、可能な限りその犠牲に敬意を払わなければならないのです。

すべての人が平等に扱われる民主主義では、多数決で必ず生まれる“死票”はそのまま無視できるものではありません。

むしろ、それだけの反対(あるいは別の意見への支持)があったなかで得られた結論であるということを真摯に受け止める必要があります

選挙の結果、多数の支持を得たことを錦の御旗のごとく振りかざし、我こそが有権者の信託を受けた唯一の存在であると喧伝することは、民主主義が多数決をその採決手段として用いていることの本質を理解していないに等しいと私は思っています。

議論の前に対話を置く

では、少数派を殺さないために必ず全会一致でなければいけないのか、というとそんなことはありません。

多数決を民主的たらしめる方法、それは「議論」の前に「対話」を置くことです。

「対話」によって相手から見えているものと自分のそれとが違うことを認識し、その違いが何によるものなのかを考える機会を持つことはとても重要です。

人はすべて、その感性も、おかれた立場も、そこから育まれる価値観も違います。

その違いを所与のものとして受容し、そのうえで議論すべき事案の目的や背景に関する情報を共有することで、双方向からの視点をもって同等に理解することができるだけでなく、関係する当事者がそれぞれ互いの立場を尊重し信頼しあえるかどうかの関係性を確認しあうことができることになります。

その関係性の確認こそが,意見が対立したときに譲歩し妥協するときの心理的な背景になりますし、最終的に多数決によって結論が導かれたとしても、その結論への納得性を高め、当事者意識を醸成し、その結論に従って行動しようという動機づけになります。

「対話」は、その後の「議論」の質を向上させ、多数決による少数派の圧殺を回避し、少数派の納得性を高め、結論の実効性を担保する役割を果たすのです。

対話なき議論は分断を生む

まちのエバンジェリストとして

行政と市民の対立も、議会での首長と議会あるいは議員同士の対立も、結局は考え方や立場の違う市民同士の意見相違からくる分断の現れにすぎません。

そのような状態を回避し建設的な議論ができるには、自治体と市民をつなぐ対話の架け橋として私たち公務員が“まちのエバンジェリスト”として果たす、「議論の前に対話を置く」役割が一層重要になるのです。

(続く)

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■ 今村 寛(いまむら ひろし)さんのプロフィール

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福岡地区水道企業団 総務部長
1991年福岡市役所入庁。2012年より福岡市職員有志による『「明日晴れるかな」福岡市のこれからを考えるオフサイトミーティング』を主宰し、約9年間で200回以上開催。職場や立場を離れた自由な対話の場づくりを進めている。
また、2012年から4年間務めた財政調整課長の経験を元に、地方自治体の財政運営について自治体職員や市民向けに語る「出張財政出前講座」を出講。「ビルド&スクラップ型財政の伝道師」として全国を飛び回る。
好きなものは妻とハワイと美味しいもの。2022年より現職。
著書に『自治体の“台所”事情~“財政が厳しい”ってどういうこと?』(ぎょうせい)、『「対話」で変える公務員の仕事~自治体職員の「対話力」が未来を拓く』(公職研)がある。財政担当者としての経験をもとに役所や公務員について情報発信するnote「自治体財政よもやま話」を更新中。